「想い」ということ

さだまさし手帳の今週の欄、父の日についてのエッセイです。

『今、「祝う」と言うことは「想う」ことに価値があるのだ、と気づく。』
という文章がありました。父の日に限らず、母の日、お中元、誕生日・・・贈られた物が嬉しいのではなく、そのひとのことを思い浮かべ、何が似合うか何を喜んでくれるかと選んでくれた「想い」が嬉しいのだと。

今、浅葉なつの『神様の御用人』というシリーズを読んでいます。人が神様への崇敬の念をなくしてしまったことで神様の力も衰えてしまう、今まで自分でできたことも難しくなるので「御用人」に仕事を頼む、はからずも御用人に任命された若いフリーターが悪戦苦闘してそれぞれの神様のご要望に応えていくという、まあライトノベルズです。そのシリーズのテーマも「想い」ということではないか、と考えました。神様への想いが薄れていくと神様の力が衰え、神様から人の子への想いも伝わらなくなる。御用人が、神様の要望に応えようと苦心・努力して神様に寄り添うことで、神様の力・想いが少し取り戻されていく。

この歳になると、家族や友人で、お空へ旅立ってしまった人も随分います。その人達のことも、想い、語り合うことで生前の彼女・彼らの姿がまた生き生きと思い出されるのですね。共通の友人を亡くしたある幼馴染が、「私達が彼女を覚えていることが供養になるんじゃないかな」と言っていました。来週、先に天国にいった友人のお墓参を予定しています。彼女の生前の姿やエピソードを想いながら、友人たちと墓前で語り合ってこようと思います。

猫のひるね~きまぐれ日記~

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